ヒシクの歴史
プロローグ
ロゴマークの由来
初代 藤安休左衛門が自分のマークとして使用していた、「ひし形に九」というマークが元になったと言われています。大正2年頃には、当社の封筒にはすでにロゴとして印刷されていました。
「九」の意味するものは、”決して10点満点でない我々は完全ではなく、まだまだ足りないものがある。それを常に意識して精励しなさい”という教えであると伝えられています。
私どもが勤務しております会社は、明治3年、明治維新による世の中の混乱もまだ治まらぬ時代に、維新の大業を担った薩摩の地から始まりました。
藤安醸造株式会社の商品は「ヒシク」の商標で皆様のご家庭や料飲店用として、また、故郷からの贈物として、地元鹿児島をはじめ、全国のファンの方にご愛顧いただいております。
その、藤安醸造株式会社に勤務いたしております20代と30代の若いスタッフも、伝統ある地元企業で働いております喜びと自覚を持ちながら、今後も継続していく会社を、それぞれの目線でとらえ、古きを知り新しく生まれる、これからの「ヒシク」を物語にしようと試みました。
例えば、社長や役員の方々と若いスタッフとの会話や社内スタッフ同士の逸話はもちろん、商品を使っていただいておりますお客様やバイヤー様との間に生まれたエピソードや、掟破りの同業他社の方の参画など、創業より140有余年の間に生まれた出来事を、それぞれの立場と切り口で綴る
私たちの「ヒシク物語」です。
ヒシク物語 vol.1
創業当時の時代背景
明治10年(1877年)、現在の熊本、宮崎、大分、鹿児島の広域に渡り、西郷隆盛を盟主としておこった「西南の役」は、新政府・薩軍合わせて役13,700名の犠牲者を出した日本国内最後の内戦となりました。
藤安醸造株式会社にも、この西南の役にまつわる話が残っております。
創業7年目を迎えた当時の藤安醸造株式会社は、現在の鹿児島市住吉町にて、味噌・醤油・食酢・清酒の製造・販売及び、穀物商を営んでおりました。
日本が近代国家へ大きく変わろうと、希望と不安が交錯している中、庶民の台所や家庭に食料を安定供給していくことが、社会貢献になることを信じ、一生懸命、額に汗を流し、事業に邁進していた時代でした。
また、「西南の役」勃発の際は、海岸に近く、それなりの敷地を有し、穀物や味噌、醤油、食酢、清酒等があったため、新政府軍の兵站基地として、利用されたこともあるようです。(郷土史掲載)
「戦さ」=「戦争」は、武器、弾薬だけでは戦えません。兵士の数だけ食料が必要となります。
「腹が減っては戦は出来ぬ」訳ですね。
あれから約140有余年…。現在でも地元の皆さまに支えられながら、藤安醸造株式会社は、お客様が喜ぶ味づくりを求めて事業を継続させていただいております。
ヒシク物語 vol.2
藤安醸造とともに生きる電話番号
文明開化の波は、鹿児島にも「電話」という、当時では最先端のメディアとして入ってきました。鹿児島県内で最初に電話が引かれた時期は1906年(明治39年)12月21日とのことです。
また、その当時引かれた電話番号を現在まで所有し続けているのは「藤安」だけだそうです。
開設当時、電話は3ケタの数字で構成されており、259の加盟数があったそうです。1番は官公庁であったと思われます。戦後、電話の普及も一般化されるようになり頭に局番がつくようになりました。鹿児島の最初の局番は2局と4局に分かれるようになり、分けた基準は、鹿児島の中心に流れる甲突川を境にしたとのことです。
現在は電話の需要も多くなり鹿児島市内の局番も3ケタの局番になっております。当然その地を移転すると局番や番号も変わるわけですが、逆に当時のままの現住所であると電話番号は変わらないことを意味しており現在も「藤安」は、その番号をそのまま所有しているわけです。
明治〜大正〜昭和初期と、日本全体が大きく揺れ動く中、現在でも変わらず、地元鹿児島の地で商いを続けることができるのは、「食」を担う上で必要とされていたと同時に、地域の皆様の支えがあった証かもしれません。